人生諸々
月一の生存報告だけのブログになり、そのたった一回の生存報告すら二月もせず情けない限りですが、一応生きています。死んだと思われても仕方ないけど・・・
冗談めかして生存報告とか死んでいない等と書いていますが、先日遂に四十路に突入した身としては決して冗談で済ませられない話題でして、かなり重い話になると思うけど自身の考えを明示しておこうかと思う。
目的としては、文章として書くことで改めて思考をまとめる事、そして対外的に記録を残しておく事です。こんな僻地ブログを見ている人がどれだけ居るのか怪しいし、この後だらだら続くであろう長文を読んでくれる人が居るのか甚だ疑問だけど、それでも文章が残っていれば何かの折に思い出してくれるかもしれない。
そうこれは遺言や遺書の類の文章だと思う。あくまで現状での考えなので環境が変われば180度意見が変わる可能性は否定しない、もしジャンボ宝くじにでも当たったら1260度位変わると思うww
・・・
そう遂に40才ですよ、40才!!
日本人男性の平均寿命が80才に届こうかと言うこの時代においても、平均的人生の折り返しを過ぎたことになります。人生50年と謡った時代だったらもう終わりが見えてくる頃です。
そんな人生の節目とも言える歳ですが、悲しいかな三十路突入の頃と何ら変わらない生活環境と生き方。生活の質という点では最近ちょっと悪化傾向が続いて、自分で選択して行動している筈なのに、どうしてこうなった的状況です。
四十路の厳しい現実として挙げる筆頭は、子供の頃には思いもしなかった寂しき独り身だという事。別に望んだ訳でもなく何も行動しなかった訳ではないけど、結果としてこの有様です。
私の考えとして、一人では生きていけない人間、社会がなければ何も出来ない人間が、誰でも可能なかつ最大の社会に対する貢献は、次世代を担う子供を作り育成する事だと思います。稀にそれ以外の事で社会に対する貢献が出来る偉人クラスな人も居ますが、あくまで例外。また普通に働きお金を稼いで、比較的平等に税金を納めているのは社会への貢献ではなく、単なる今を生きていく上での相互扶助でしょう。
何故か現代社会では自信満々に一人で生きているだの、(システムとしての問題は別として)結婚し子孫を残すと言う行為を安易に否定する人が多いと思うけど、それは間違いだと思う。いや間違いと言うより先に書いた通り、社会によって生かされてる身でそれを否定出来る程、社会に対する貢献が出来ている人なんて殆ど居ない。
と書くとかなり反発をくらうかもしれないけど、これを感情論を除外して否定出来る人なんてまずいないだろうと勝手に思っている。
勿論個々が自分の意思で独り身を貫く、若しくは伴侶を得ても子孫を残さないと言う選択を選ぶ、はたまた結果としてどうにもならなかった、ということ自体は否定も肯定もしない。ただ結果として社会貢献をしない(出来ない)事に対しての相応のペナルティ(負担)は甘受すべきでしょう。勿論私もその対象だから常識の範囲内での増税や待遇の悪さは甘んじて受け入れるつもりです。
ただこの様な事を言うとややこしいのが、子供が居れば偉いのなら所謂DQN(底辺な親、屑親またはモンペも含む)でも偉いの?とか不妊治療を行っても授からなかったのが悪いのか?とか極論を言い出す人達が沢山いる事です。
当たり前だけど、子供を生み育てる事になんら責任を感じず(持たず)、他人への迷惑を理解せず(出来ず?)、子供共々社会性を持たず、何も考えずに本能で生きている動物(人間に非ず)は先ず人間になる所から始めて下さいです。
そして不妊だの病気だのという個々の事情は、社会全体を話す時には除外して考えて下さいと(勿論実際に運用する際には考慮すべき内容ですよ)
とそんな風に思っている訳なので、現状自分は社会のお荷物に成り下がりつつあると感じている。普通に働いていて、無条件に納税させられているので最低限の義務は何とか果たしていると思うけど・・・
そんな後ろ向き思考を持っている上に、現状自分の事以外に責任を負わない身軽(残念)な状況なので、今もし病気になったら、今もし事故で怪我をしたら、治療してそれなりに元の状態に戻れる、ある程度のQOLが確保出来るなら治療やリハビリも頑張ろうと思うが、出来る限りの治療をしてもQOLが確保出来ない、他人に迷惑を掛けながら生きるしかないとなるなら、個人的希望としてあらゆる治療は拒否したいと思う。
この辺の考えは両親とも一致しており(とは言え、両親は私に当てはめるにはまだ若すぎると思っているだろうけど、基本的思考は一致)、帰省する度に両親とはこの様な話をしています。特に古希を迎えた両親はより身近な問題として認識している。寝たきりになるなら、相応な介護が必要になるのなら、その様な状態になるであろう治療は拒否すると明言しています。
私もその通りだからいざという時に慌てない為にも、意味不明な人権屋とかが出て来てややこしい事にならない様に、兄弟親族で余計な問題を起こさないためにも、文章で残しておいてくれとお願いしています。
最近この様なホスピス的な話、安楽死の問題、QOLの改善など色々話題に出て色々議論が行われているが、私的に一番理解できないのは、自分は他人に迷惑を掛けて生きたくないけど、自分にとって大事な人は別というダブルスタンダードな考え方を持つ人達。
どう考えても自分が嫌だと思うことを他人に強制するその思考は理解出来ない。そして何より困るのは、この様に考える人達の中で特に過激に感情的に考える人達が、尊厳死について安楽死についての議論を深める事を妨げているのが非常に問題だと思う。
献身的な介護を行い、自らの生活を犠牲にしてまでも尽くす事自体は美徳ではあるが、それはあくまでそう思える人間が自分の意思で行うから美しいのであって、他の人にも同様な事を望むのは明らかに傲慢な考えだと思う。
(皮肉を込めて言うが)中途半端に医療技術が発達した上に医者は例え一日でも患者を生かさねばならない、と言う風潮がまかり通る現代日本では、一度治療を始めたが最後、どんなに辛くて本人が拒絶しても、人としての尊厳を無くしても、ただ機械で生命が維持されて治る見込みがなくても、あらゆる事情が考慮されず一律死ぬまで、死ぬ以上の苦しみを与え続けなければいけない様です。これって理不尽極まりない話ですよね・・・
勿論議論はとことん行うべきだし、運用に際しては各種規制や条件、それらを厳格に運用し差別や他人による存在の否定にならない様に監督していく必要があるだろうけど、最終的には本人の意思、人としての尊厳を最大限守るべきではないだろうか?
父も常々、寿命が見えている老人に治療を施して半年延命させる事に何の意味があるのか?と言っている。
これは医療に関わる人、技術、金すべての無駄遣いだろう。本来そのお金、人はもっと有用に活用されるべきものなのに、ひたすら苦痛を与え尊厳を失わせる行為に費やされるとはどれだけ嫌がらせなのか。
まだ妹とは直接話していないけど、近い内に両親と兄弟で明確な話をしておこうと思う。両親の人生が大事だから、自分が大事だから、そして妹には何より自分の子供を健やかに育ててもらう為にも、この手の話はタブーとせずしっかり話をしてコンセンサスを得るべき内容だと思う。
ちょっと前に麻生副総理が同じ様な事を話したらマスゴミが一斉に叩き始めた・・・凄く正論だと思うのだが。大多数の人はチューブに繋がれベッドの上で寝たまま生きたいと思わないだろうし、尊厳ななき延命行為は経済的にも人道的にも無駄以外の何者でもないと思うのだが、どうしてこうマスゴミやプロ市民達は理性的に議論をしようとしないのだろうか。
大分後ろ向きな事書いていますが、頑張って生きていれば辛い事だけじゃなくて、楽しい事だって沢山あるのは分かっています。ただしあくまである程度健康的な体と心を維持出来ているならば、と言う大前提を無視した理想論は本当に止めて欲しい・・・
冒頭に書いた通り、残念ながら現状私は社会貢献に役立たない悲しき独り身です。なので現時点では何より自分が大事。勿論親兄弟も大事だけど自分以上なんて考えられない。だから
大事だからこそ、他人に迷惑を掛け、社会の荷物になってまで長生きしたくはない
大事だからこそ、痛い思い、辛い思いをしてまで生きたくはない
大事だからこそ、自分と共生してくれる社会に対して必要な責任は果たしたい
自らの意思で生き、死を選ぶ事が可能になって欲しい。
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